ここ数年で急速に近所の街並みが変わりつつある。
私が子供の頃からあった古い木造の家々が姿を消し、更地となり
その上にこの時代の日本を象徴するかのような新築の住宅、カスタマイズされた没個性
画一的なブロックが次々に建てられていく。
曲がり角に建つその家も、ある日を境に白いビニールシートで覆われ
ガンガン バンバンと解体工事の音が聞こえてくるようになった。
この家は長年人が住んでおらず、のびのびした玄関横の金木犀は
毎年秋になるとたくさんの花を曲がり角のアスファルトに散らす。
十月になると風に乗ってどこからともなく運ばれてくる金木犀の香りは
この木からだったのかもしれない。
塀の内側に植わっているのは白いモクレンの木。
毎年咲いているので何度も目に入っていたはずだが、これまで意識することなく通り過ぎていた。
解体工事が始まって1週間ほどだった日、用事で駅に向かうのにその家の前を通った。
売却中の登りが設置され、首の長いブルドーザーが一台、骨組みだけになった古屋をバリバリと崩していた。
おそらく解体は今日で終わるだろう。
ほとんど家の形はなくなっていた。
かつての姿を刻一刻と無くしつつある家の傍に、すくっと白木蓮の木が立ち、
白い花を高々と咲かせていた。
家が壊され木の周りに何もなくなったからか、この日が三月中旬で花盛りだったからか、
今まで気づかなかったのが不思議に思うほど、異常なほど生き生きと
ギラギラと花を咲かせていた。
花が美しいなんてことだけでは表現が足らず、
木全体が隅々まで堂々たる自信、誇りを抱えているようだった。
自信、誇りというと、人間や動物が同種の社会、群れの中において他に対して優位になる時に抱く感情、状態が私達の日常生活の中では頻繁に垣間見れるものだと思うが、それではなく、
地球上の生きとし生けるもの・有機物無機物おそらく全てに共通する、強烈に生きる、
死という終わりを目前にして自身の存在を精一杯生き、魂が燃え上がっている状態だった。
その本体(生き物)が自分の一生の終り、死を理解しているかは分からない。
人間のように未来を予測したり、自分で思考して先の見通し/計画を立てる生き物は
最期の時がいつか来るという実感を持ちづらいのではないか。
よって今生きる実感、魂を燃やして生きている状態から遠のく。
もしかすると、植物や野生の生き物は無意識に無自覚に常にこの状態にあるのかもしれない。
普段モクレンの木を見ても、ああ咲いているな としか私の目は捉えられなかったが、
数時間後に引き抜かれて一生を強制的に終わらされるという事実を知った私はその魂の輝きを捉えた。
しかしおそらく毎年、モクレンはギラギラと咲いていたのだと思う。
私が見落としているだけで、
全ての植物は文明社会で生きる生き物よりも一瞬一瞬の生を燃やして生きている。
私たちは死を忌まわしいものとして遠ざけようとする。
終りは全てのものに必ず来る。
あの日のモクレンのように全ての私の瞬間を、
炎がギラギラと燃えるように、
自分という存在、魂を全力で生きたい。